精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

櫛と骨

古事記景行天皇条全訳註 - 8.弟橘媛、倭建にかわって入水する

故、七日の後、其の后の御櫛[みくし]海邊に依りき。乃ち其の櫛を取りて、御陵[みはか]を作りて治め置きき。

(そして、七日後、そのお后の御櫛が海辺に流れ着いた。そこでその櫛を取って、御陵を作って納めた。)

どんなに絶望的な状況でも、遺体が出てくるまでは行方不明、というのを何かで見た。
7日間、倭建は海辺から離れられなかったんだろう。弟橘が生きているなんてありえない。そんなことは分かりきっている。でも、もしかしたら、もしかしたら…

「骨を見ると、すっと気持ちが落ち着くというかね…」
私の祖母が亡くなった時、焼きあがった骨を見て誰かがつぶやいた。
このシーンを読むとき、いつもそのときの感覚を思い出す。

奇跡を感じるということ -テレビでクリスチャンを見て-

テレビに自分の娘が大火傷して絶望して、教会行ったらきれいに治ったから奇跡だと感じて、神様がいると感じて、クリスチャンになった、って人が出てた。(分かりにくい書き方でスミマセン…)

「奇跡だと感じる」
ここが自分じゃ選べない。娘が火傷したからって教会に行く人も少ないだろうし、治っても医療の力だって思う人の方が多いだろうし。そういった意味で「彼は神に選ばれた人だ」と思った。
でもこれ言うと、不信仰も神に選ばれた結果ってことだから、結局何を言ったことにもならない。笑

全ての出来事が1回きりということを考えれば、全ては奇跡だし、ただの偶然でもある。
それでも何かを奇跡だと感じられるということ。私には信仰心はないけど、そのこと自体が奇跡だと感じる。