精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

信じなければ救われるかも


こんにちは。ナナコです。

哲学・宗教・スピリチュアル系で
「救い」「癒し」
とは関係なく記事を書きたくて
書いてるこのブログですが、
確かに「救い」「癒し」の面が
あると言えばあるので、
今回はそのことについて
書いてみようと思います。

 

これらの分野の言葉は

何を言っているのか分からない
胡散臭い
気味悪い

と感じることが
多いのではないでしょうか。

これらの分野は、
普通は「常識だ」と思って
気にもとめないことの中に、
不思議な部分があることを発見し、
それを伝える分野なんです。

生物学、科学、考古学などの「発見」
と質は同じです。


生物学、科学、考古学なら
具体的に物を見せて
「こんな物がありました!」
と驚きと共に伝えられるのですが、
これらの分野は、
対象が目に見えないもののため、
発見したものを
言葉で説明しなければならず、

しかも発見したものは
常識外れのものであることに加えて、
「言葉」という常識
(その言語を使う人の共通認識、
という意味での常識)
を示すものを使って
説明しなければいけない、
という複雑な経路をとるので、
訳のわからない言葉になりがちです。

中にはそれを逆手にとって
本当にテキトーなことを言ってるものも
ありますが。。


前置きが長くなりましたが、
そんな分野の「救い」「癒し」は
何かというと

↓↓↓ 以下引用 ↓↓↓

「言葉によって思考する全ての者たちの、
時代の痛苦と魂の傷とを、
ただの無駄とする」

「人類が二千年のうちに成し遂げたように
思っているあれやこれやが、
いかにどうでもいいことであったか、(略)
笑いのめし、打ちのめし、
一切虚無へと絶句せしめる」
ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け (新潮文庫)

ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け (新潮文庫)

 


という、
この世の無意味さを見抜く面です。

プラスもゼロになりますが、
マイナスもゼロになります。

マイナスだと感じている人には
それが救いや癒しになるでしょう。


ただ、状況や既にそうあるものを
物理的に変える力はありません。
すごく悪い言い方をすると、
気の持ちようが変わるだけ、
ということです。。


以下個人的な考えですが、
聖書でイエスが癒す人は、
「目が見えない人」
が多いことが印象的で、

これは
目が見えない人を物理的に治した
という話ではなく、
思い込みを外してあげたという
比喩じゃないかなぁと
思っています。

思い込みが外れるということは
それくらいインパクトがあることだと
思います~