精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

勧善懲悪の物語


こんにちは。ナナコです。

今回は、「勧善懲悪」について
書いてみようと思います。

 

観念についての哲学系討論会に
参加してみたことがありまして、
その時とても印象的だったのが、
大体その言葉と「善悪」が結び付いて
語られることでした。

例えば、「優しさ」について
討論しているのに、

「●●するのは優しさだけど、
××するのは人を傷つけるから良くない」

という道徳的な話になったりなど…


心理カウンセラーの心屋仁之助さんは
ブログで、
「不快」「迷惑」「苦」「痛」 は
「悪」ではなく個人差と書かれています。
■気づかないことにしている罪、隠し持っている罪が、「悪」と「問題」を作り出す

「善悪」と「快不快」等の感覚の区別は
なかなかつきにくく、
それが原因で、他人なり自分なりを
「悪い」と思い込んで、
悩む人が多いようです。


テロ行為が立て続けに起きましたが、
する側としては「悪いこと」ではなく、
「良いこと」として
行っているのでしょう。

「悪い敵」が改心しないのだから、
仕方ない。やむを得ない…と
行っていることなのでしょう。。


ところで、「勧善懲悪」は
善を勧めて悪を懲らしめるので、
絶対、良いことです。

テロ、戦争がよく起こるのは
勧善懲悪の最たるものだからでしょう。
みんな、正当な理由をもって攻撃します。

でも、ちっとも勧善懲悪じゃなくて、
ただの悲劇になりがちです。

なぜなんでしょう??


「悪だ!」「敵だ!」
といって人を殺すも、
「悪」や「敵」は、

「自分が相手をそう見ているだけ」

という、
自分が作りだした幻のようなものです。

「悪」そのもの、「敵」そのものは
物質じゃないので、
絶対に、物理的には殺せないんですね。

だから、
勧善懲悪をしてる気になっているだけで、
実は違うことをしている、のです。。