精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

あなたは髪を生やせますか?

こんにちは。ナナコです。

今回は、昔の人は何を指して「神」と言っていたか、ということについて書いてみようと思います。ギャグを言うつもりはなかったのですが(><;

※一応書いておくと、私は宗教に所属しておらず、特定の神や仏を信仰しているわけではありません。いわゆる教会や神社仏閣等にいるとされる具体的イメージ化された神の話ではありません。

 

さてタイトルに戻りまして、髪の毛、自分で思いどおりに伸ばせたり生やせたりできたら便利ですよね~
特に、失礼ながら、薄毛で悩んでいらっしゃる方は、切実な願いなのではないでしょうか。毛母細胞の細胞分裂、自分で起こせたらいいですよね。

そう、私たちは自分の髪の毛1本思いどおりにできないんです。。じゃあ何でこんなことが起こっているのか。

この答えを新約聖書では、

5羽の雀は2アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の1羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
(ルカの福音書 第12章第6~7節)

と言いました。ふざけてないですよ!笑

髪の毛生えたり抜けたりすることは、神様出すと変に思うくらい、ちっともすごくないし、あたりまえのことに思えます。でも、そんなちっともすごくない、あたりまえなことを、私たちは思いどおりにできない。
大きな会社がたくさんのお金をかけて、頭いい人を集めて何年も研究させて、それでも100%の人に髪の毛を生えさせられないという複雑な仕組みが、なぜかあたりまえにある。すごくないですか?

今は科学や物理などでいろいろな物事の仕組みが解明されてきました。裏返し、元々そのようにあったものの「仕組みが解明されている」だけなのです。科学者が無から遺伝子の螺旋構造を作って、その結果人がこのようにあるのではなく、遺伝子が発見される前から遺伝子はそのようにあったわけです、どういうわけだか。

「物事がどういうわけだかそのようにある」ということに気づいて驚いた昔の人が、その「どういうわけ」を「神」といいました。

コーランの「慈悲あまねく御方」の章は、この神感覚?が分かりやすく書かれていて、個人的に大好きな章です。
信仰心はないので最後の審判あたりからは、ちょっとついていけないけど…(^-^;
聖クルアーン