精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

本当の私が分からない

こんにちは。ナナコです。

偉そうに「~なのです。」と断定をして書くことが多いこのブログですが、何を主張しているかといえば「分からない」と主張しています。笑

 

「本当の<私>が分からない…」
このことで悩んでいる方は多いようですが、では「偽物の<私>」が考え行動しているのでしょうか?私が私でないなら誰なんでしょうか? |・ω・)???
よそ行き用の人格を作り、それで長く過ごしていたために本来の人格が分からなくなってしまった…という例えなのかもしれません。
でも、よそ行き用の人格を作ったのも「私」であり、本来の人格が分からなくなってしまったのも「私」です。「本当の<私>」でなかったことは一度もないはずです。

悩むというのは、

決めかねたり解決の方法が見いだせなかったりして、心を痛める。思いわずらう。
(引用元:なやむ【悩む】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

等の意味で、いろいろ解釈はあっても「苦しい」「困っている」状態だというのは間違いないかと思います。

上に書いたとおり、私が私でなかったことは一度もなかったはずです。
それを「これは私ではない。」と「本当の<私>」を否定するのだから、それは確かに苦しくなってしまうでしょう…

私は人形になりたい」の記事にも書きましたが、多くの方が「私」をはっきりした物のように思っているようですが、よく考えてみるとあいまいなものです。
じゃあどれが「本当の<私>」なのか。
あれこれ考える精神?も「私」と言えるでしょうし、体を傷つければ痛いのだから、体も「私」と言えるでしょうし、この目で見ている世界は脳によって作られた映像なのだから、この世界も「私」と言えるでしょう。
この体でもあるのにこの世界でもある?「考え」は私のもののはずなのに勝手に湧いてくるなんて、「私」なのに「私」の主導権がない?

「本当の<私>が分からない…」
のドツボにはまると、悩まないけど途方にくれること間違いなしです。