精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

空気読め

こんにちは。ナナコです。

「空気が読めない」ということはマナーなどで問題になりがちですが、そもそも「空気を読む」ということがいかに不思議なことかについて、
百人一首の阿倍仲麿の歌
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
という和歌を使って書いてみようと思います。

 

こちらのサイトに
阿倍仲麿(あべのなかまろ)|子供と愉しむ百人一首:百人一首の意味を知ろう

本文:
 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

意味:
 はるか大空を見上げてみると、月がとても美しいなぁ。あの月は、故郷の奈良の春日にある三笠山にかかっている月と同じなんだろうなぁ。

鑑賞:
 この和歌は、仲麿がいよいよ日本へ帰国できるというとき、送別会の席で詠んだといわれています。長く離れていた故郷を思う気持ちがとてもストレートに伝わってきますね。この後、船が遭難して結局、日本へ帰れずに中国で亡くなったことを思い合わせると、なんとも切ない気持ちになる和歌です。

とありました。

この歌が詠まれたのは送別会の席ということなので、阿倍仲麿の故郷が奈良の春日だということ、長くそこを離れていたことはその場の全員が知っていたとしても、
意味の「月がとても美しいなぁ。」
鑑賞の「長く離れていた故郷を思う気持ち」
はこの歌の一体どこに書かれているんでしょうか。どこにも書かれていません。

書かれていないことがなんで分かるんでしょうか?
野暮を承知で無理やり解説すると、そもそも「歌を詠む」時点で心が動かされたから詠んでいる、ということが分かります。
大空に月という美しい光景であり、でも月はどこに行っても見られるものであるにも関わらず、阿倍仲麿は故郷を思い出した。このことから彼が故郷を深く思っていることが伺えます。
「天の原 ふりさけ見れば」で、故郷との距離感もなんとなく感じられます。「はるか」って感じです。なので、故郷から時間的にも距離的にも結構離れていて、懐かしく思ってるんだろうなと推察できます。

とまぁ、和歌上には特に書かれていないのに、これだけイメージが湧くわけです。
私の追加解説なんかなくたって、たった31文字で、文字上には書かれていない「長く離れていた故郷を思う気持ちがとてもストレートに伝わってきますね」。

で、これがまた不思議なところですが、多分阿倍仲麿は
三笠山にかかっている月と同じなんだろうなぁ。」
と言いつつも、言いたいことはそれではなく、
「長く離れていた故郷を思う気持ち」
つまり、文字に一切書かれていない方が言いたかったのだと思われます。

これは和歌なので極端な面もありますが、何かを言うということは時に、
「言葉を使って、その言葉の意味じゃなくて、その言葉以外の意味を伝える。」
こういう、文章にすると意味不明なことを普通にやっている場合があります。

日常生活だと言葉に加えて、相手の表情など
「笑っているけど、本当は悲しいのを抑えているんだろうなぁ。」
と表情以外の方が大事だったりするわけで、だけど
「笑っているということは、悲しいのを人に知られたくないんだな。」
と、時と場合によっては空気を読んで、あえて空気を読まない対応が、空気を読む対応になったり…
と、よくよく考えるとすごいことやってのけてるなぁと思います。
離れ業なので、まぁできない人もいるよね…って思います。自分も苦手。。(^-^;