精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

同情と蔑視は似ている

こんにちは。ナナコです。

この記事で言う「同情」とは、慈善団体のCMが狙っているものの類い、つまり、悲惨な状況の人を見て「可哀想…」と思う、というようなことです。

 

突然ですが、あなたは人から同情されたら嬉しいですか?「可哀想な人」「恵まれない人」等と言われたり、思われたいですか??

古いドラマですが、「家なき子」というドラマの主人公の決め台詞(?)が
「同情するなら金をくれ!」
でした。
人から同情されるというのは、惨めな気持ちになったりして、不快に感じる人も多そうです。また逆に、同情するという行為は「私はあなたより優位な立場にいます」という上から目線な態度にもなりうる、といえそうです。

数日前の話題ですが、高鳥副大臣がブログに「ブルーチーズは美味しかったです!」と書いたことに対し、福島氏が「(国内の)酪農家の多くが(影響を)心配している中で、おいしかったとつぶやいている場合ではない」と批判したそうです。

TPP署名式後、ブログに「チーズおいしい」 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
TPP副大臣「ブルーチーズは美味しかった」は失言なのか 国会でお詫びさせた民主党追及の「後味」 : J-CASTニュース

正直、こんなことが大真面目に書いてあるものだから爆笑してしまったのですが、これも福島氏の、酪農家に対する同情心から出た批判なのでしょう。

ですが、もし副大臣が、彼の言うとおり、酪農家の不安に添う言動をしたとしたら、それは堂々と「ニュージーランド産のブルーチーズが売られるようになったら、国産のブルーチーズは売れなくなるに決まっている。あなたたちのことを可哀想だと思っています。」と言っているようなもので、上から目線であり、頑張っている酪農家に対して失礼ではないでしょうか。裏を返すと福島氏はそう思っている…

それこそ「同情するなら金をくれ!」じゃないですが、政治家に心理的配慮なんかされたって、状況が変わるわけでもなし。
東日本大震災のときも感じましたが、なぜ無関係の人までもが「不安を分かれ!思いやれ!楽しそうにするな!」という態をとるのでしょうか。一見、苦しんでいる人に寄り添っているように見えるこの態、皮肉なことですが、この態こそがまさしく「私は関係ないから大丈夫。あの人は不安で可哀想。」と、事を他人事として思っている、ということなのです。

たまたま私は酪農家ではなく、ブルーチーズの関税について危機感は薄く、普通に楽しく暮らしています。だけどそれは「たまたま」であって、今後いくらだって危機感を感じる出来事が起こる可能性があります。そして、それが酪農家の方には関係がないことだったら、それが起こった時、酪農家の方の持つ危機感は薄く、普通に楽しく暮らすことでしょう。こんなこと、ごくごく当たり前のことで、これは誰に対しても同じ条件ではないでしょうか。

そういった意味では、他人事な出来事なんてない。人に起こる事は全部、自分に起こる可能性があります。
「大変な目に遭っている人が多いんだから、私もおとなしくしていよう。」なんて思ってるうちに、安心してください、あなたにもいつか実際に大変な目に遭って、おとなしくならざるを得ない日が来ますよ!