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精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

あの世に生きる

こんにちは。ナナコです。

あの世とこの世」の記事では、目に見えないものの力を大河ドラマを例にして書きましたが、ドラマだけではなくて現実も同じ、ということを書いてみようと思います。

 

ご自分のご両親を、両親だと思わずに見ることはできるでしょうか?友人、会社の上司や同僚、お店の店員、赤の他人…そう思わずにその人を見ることはできるでしょうか?

両親、友人、赤の他人そのもの、というのは存在していません。Aさんの両親、Bさんの両親、というように、中身が別人でも「両親」と同じ言葉を使います。その人そのものではなく、その役割、関係性等を示すような言葉です。実体がないけれどもある、概念です。
実体がないけれどもある…意外にも、前回記事での真田信繁と同じような位置に存在するものなのです。

自分の親を呼ぶときは「お父さん、お母さん」等で、名前で呼ぶ人は、あまりいないと思います。
会社の上司には敬語を使い、友人には使わない。赤の他人が無愛想でも気にしないけど、お店の店員が無愛想だと、感じ悪い店だなと思う…
このように、概念が私たちの行動を支配している、といえます。

概念の支配はこれだけに限らず、例えば、
「今日、上司に叱られた。理不尽。むかつく。」
という日記を書いてるとして、その出来事はもう終わったことで、今体験していることではない。それなのに、今むかついている、ということについて。
「明日デートだ。楽しみ♪」
という日記を書いてるとして、その出来事はまだ起こっていないことで、今体験していることではない。それなのに、今うきうきしている、ということについて。
一体、これはどういうことなのでしょうか。冷静に考えると、すごく不思議なことではないでしょうか。

大和田菜穂さんがいう「ストーリー」とはおそらくこのことと思われますが、

概念の奴隷 | Already in love

このように概念の世界を生きることは、言葉を使って生きる私たちにとても深く根付いた生き方です。私たちは実際に経験していない出来事を、人との会話、ニュースや新聞など言葉を使って見聞きします。ドラマや映画、漫画などの「ストーリー」があるものがとても人気があり、大昔は神話という形でさまざまなことを説明していたのも、物語は私たちの人生とあり方がほとんど同じで受け入れやすい、というのが一因なのでしょう。

白隠禅師の『壁生草』に

「そもそも、生死の家を出て見性得悟したから、出家というのである。頭を丸めて親の家を出るのを出家というのではない。
(略)
渡世では、だれでも家に在ってすぎわいするのに、ことさらに在家というのはなぜか。在家とは出家に対していう言葉である。在家の人たちは生活のために、農工商それぞれの仕事に励んで辛苦しているから、僧のように、もっぱら生死出離の一大事を究めるために修行する暇はない。そこで、在家の人々は折々に出家に供養して、来生の勝縁を結ぶのである。であるから、出家たるもの、一切衆生を利せんがために、大勇猛信心を憤起し、とにかく見性の眼を開き、不断に法を説いて、仏祖に代わって一切の人々を救済せんとするのである。だから、出家と在家とはいわば車の両輪である。」

白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))

白隠-禅画の世界 (中公新書 (1799))

 

 

という言葉があるそうです。

「生死の家を出て」「生死出離」
そこまで常に徹底している境地というのは想像できませんが、私たちの重大事である「生死」も、「<生>そのもの」「<死>そのもの」の実体がないように、実は概念であり、ストーリーなのです。