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精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

『歎異抄』解説の歎異抄①

こんにちは。ナナコです。

今回は『歎異抄』の解説を書いてみようと思います。

細かい修正をかけまくってしまったので、タイトル変更、記事を上げ直しました。

「あの時ああしていれば…」という罪悪感を感じている人とか、「これからどうしよう…」と悩む人が『歎異抄』を読んで、少しでも楽になるといいなぁ。

 

NHKの「100分 de 名著」という番組で、『歎異抄』がとりあげられていました。第1回を観たんですが、毎週観るより、読んだ方が早いことに気付く。笑

面白かったです。

引用は全てこちらから。
(手元のは普通の「講談社文庫」のなんですが、↓にリニューアル??)

歎異抄 (講談社学術文庫)

歎異抄 (講談社学術文庫)

 

 

とても有名な「悪人正機説」。

原文:
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

現代語訳:
善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか

この教え自体は法然のものですが、その解説を親鸞が行ったようです。
世間の常識と真逆をいく説で、続きが聞いてみたくなりますよね。上手いなぁと思います。

そう、ほんとに上手いんです。だって親鸞

原文:
善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり。

現代語訳:
私は善悪の二つについては全く知りません

と言っている…笑

救われるためには「南無阿弥陀仏」と念仏するだけでOK。
こういうの、難行に対して「易行」というそうです。
「私、善人とは言い難いし、かといって厳しい修行なんてできないし、念仏するだけでいいなら、ちょっとやってみようかな…」
なんて、気軽に試せそうです。

ところが!

原文:
弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

現代語訳:
阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。

「念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき」
であって、
「念仏まふさんとおもひたつとき」
じゃないのがポイント。この受け身感・自然に起こる感、分かりますでしょうか。これが「信心」。「他力」で信心が起こるんです。
「教えを信じる」じゃダメ。
「極楽浄土に行きたいから念仏しよう」じゃダメ。
阿弥陀さまに助けられて、自然と、心から、「南無阿弥陀仏阿弥陀仏に一切おまかせします)」という言葉が出てこないとダメ。
だから、「念仏唱えたのに何も起こらないぞ!」という文句は筋違い。

「じゃあ、どうしたら阿弥陀さまに助けてもらえるの?そういう思いが自然と出てくるようになるの?」
って思いますよね?
その思いを持つ時点ですでにダメ。笑
そうやって自力で助けてもらう人物を目指すのが「難行」です。そして、それを実現出来る人は「善人」。それを実現したいなら、浄土真宗以外の道を選びましょう。

じゃあ、そもそも阿弥陀仏とは何か。

不思議(われわれの思慮の及ばないもの)

「……バカにしてるの?やっぱり念仏って、精神的に弱い人が縋るものなのね」
と、こうして私たちは、自力で考え、自力で生きていく。

ところがどっこい、念仏は私たちの盲点を突いてるんです。

長くなったので、いったん区切ります。

 

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※この記事の続きはこちら
『歎異抄』解説の歎異抄②