精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

『歎異抄』解説の歎異抄②

こんにちは。ナナコです。

この記事は「『歎異抄』解説の歎異抄①」の続きです。

 

私たちは、謎の「仏」なんて信じず、自力で考え、自力で生きています。だけど、その頼りにしている「自力」とは何でしょうか。

下記文章、長いんですけど、なぜ唯円は一人も殺せなかったのでしょう?このことを、「業縁」とか「願の不思議」とかいう宗教の逃げ道を使わず、説明できますか?

原文:
またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

現代語訳:
あるとき聖人が、「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」とおっしゃいましたので、「もちろんでございます」とお答え申し上げたところが、「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」と重ねて仰せられたので、つつしんでご承知いたしましたところ、「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」とおっしゃったのであります。そのとき私が、「聖人の仰せですが、私のような人間には、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」とお答えしたところ、「それではどうしてさきに、親鸞のいうことに決してそむかないといったのか」とおっしゃいました。そして、「これでおまえはわかるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう」とおっしゃいましたのは、われわれの心が、よいのをよいと思い、悪いのを悪いと思って、善悪の判断にとらわれて、本願の不思議さに助けたまわるということを知らないことを仰せられたのであります。

それまで「殺人は悪」という教育を受けてきたから、でしょうか?
でも、今の日本を見ても分かるように、そういう教育を受けていても、殺人者になる人とそうでない人がいます。ましてやこの場合、絶対に信用できる人から「殺人は善」と言われているのに。

そういう脳だから、でしょうか?
だとしたら、自分の意志は関係ないことになるので、自力はない、ということになります。脳は何が動かしているのか…

私は信仰する神仏がないので答えは出せないんですけど、でも確かに人が自分の意思で行っていると思う様々のこと、その出所自体を考えてみると、どうも自分の意思とは関係ないものがはたらいているようなのです。

例えば、「会社を休みたいけど嫌々出勤する」という人は多いと思います。
まさしく自分の意思での行動に見えますが、なぜ休みたいのに嫌々出勤するのでしょうか。
「やらなきゃいけないことがある」とか「休んだら人に迷惑がかかる」等の職場での記憶や、「収入が途絶えたら生きていけない」という恐怖からの行動ではないでしょうか。記憶や恐怖から出てくる行動は、自分の意思での行動と言えるでしょうか。
しかも世の中には、そういうことを全然気にせず休める人もいます。それなのになぜ気になるんでしょうか。考えてみても、正確な理由は分からないのではないでしょうか。
こんな風に、自分の意思が、自分の意思以外の何かに動かされている状態なのに、それを自分の意志と言っていいのでしょうか?自分の意思で何かを行っている、と言えるのでしょうか?

いったい「自力」は、どこにあるんでしょう?
上に書いたとおり、私たちの行動は自分の意思でどうこうしているものだとは、とても言い難い。

じゃあ何がそうしているのか。
「何がそうしているのか」という問いすらそこから出てくるから、私たちには決して知ることができません。その謎を「仏」と言っています。

実は自力で生きてきたんじゃなくて、謎の他力に生かされていた。だから、

原文:
善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり。

現代語訳:
私は善悪の二つについては全く知りません

思い図ることができない仏の計らいから出てくることを、善悪判断するなんてできるわけがない。だから善を喜んで悪に苦しむなんておかしい。煩悩のせいで、善でないものが善に見えて喜び、悪でないものが悪に見えて苦しんでいるだけなのだ。でもそんな煩悩も仏の計らいなのだから、やっぱり全てが他力なのだ。

あぁ…南無阿弥陀仏……笑