精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

経験と言葉

こんにちは。ナナコです。

読書会で、サッカーの試合の記事を読んでイメージしてから実際の映像を観てみると、イメージと全然違う、という話を聞きました。面白かったので、とても印象に残っています。

 

もし正確にイメージ出来るよう、全てを言語化してみたら……そんなことは不可能です。どれだけ言葉を尽くしても。そもそも映像だって、その場の全てを伝えることは出来ません。

私たちは、ニュースやSNS、ワイドショーなどで様々な出来事を知ります。特にニュースは、公平さや客観性を謳っているし、それでその出来事の全てが分かったような気になります。けれども、それで全て分かるなんてことは、ありえません。それらは全て出来事の言語化や映像化による整理整頓の結果であり、その時点で既に人の意図が組み込まれています。とりあげられている出来事そのものではありません。

生活のあらゆる全ての物事を、同じレベルで重視して生きるなんて、とてもできない。私たちは、無意識で出来事を整理整頓しながら生きています。よく映画や物語などについて「人によって解釈が違う」と言うけれど、人によって、その無意識の整理整頓の基準が違うからこそ出てくる現象でしょう。そして、その整理整頓で、たくさんのものが意識の外に捨てられていく。「大人になる」ということは、まさにその整理整頓を行えるようになることで、そうでなければ子どもを育てられません。これは良い、これはダメ、と、生きていくのに必要だったり有利になる判断基準を教えなければいけないのだから。

捨てられる情報は、確かに生きていくのに不要だったり不利になるものなのでしょう。けれども、生きていくのに必要だったり有利になる情報の取捨選択なんて、複雑さの程度問題はあるにしろ、動物だってしている。人間的な部分というのは、捨てられる方にしかないのかもしれません。