臆見 -人間いかに生くべきか-
こんにちは。ナナコです。
今回は、人間はどのように生きるべきかについての考察です。
こちらのツイートを見て、
僕が花屋でバイトしていた時、お客様の気持ち(プロポーズだったり、感謝だったり、お見舞いだったり…)を花に翻訳し、花束に変換する作業が本当に楽しかったのですよね。花言葉や色合わせもあって高等魔術を使っている気分でした。
— 黒川巧 (@kurokawa_t) 2018年3月17日
本当に美しくて繊細な世界だと感動しました。(←語彙力…)
ところで、このツイートのように、花に花以外の意味を付属させて捉える行為、これを哲学では「臆見(ドクサ)」といって忌避します。ドクサを見つけて捨てていく、という行為をどんどん繰り返して、最終的に「神」や「私」という抽象的な大問題にぶち当たるというのが、オーソドックスな思考の流れで、その大問題の表現に全人生をかけたのが、有名な宗教家や哲学者たちであろうと思います。
言葉の意味そのものに根拠がない。だから、言葉の意味自体がそもそもドクサだといえる。でも、私たちは、言葉に依存した認識以外の認識手段を持っていない。月を太陽だと認識するようなことは、絶対に出来ない。もうこれ以上何も捨てられない。先に行けない。真実への道は閉ざされた。さぁどうしよう!
キリスト教はこの限界に「わたしはある」神を置き、物事はとにかくそのようにある、と認識を肯定。そして、認識の限界である言葉・論理(あと理由がわからないけど昔からある慣習も?)どおりに生きる道をとります。認識できないことに関しては、神の御心のままに……
でも、そもそもの根拠が分からないわけだから、「この生き方こそ真実の生き方だ」ということは絶対に言えません。こういった類の話の表現方法としては、最高の生き方だと思うけれど、それを表現したいという熱意でもなければ、そういった生き方をしなければいけない理由は、もうどこにもない。
「悟っても悟らなくても同じ」と一休宗純は言ったそうです。
悟らぬも悟りも同じ迷いなり 悟らぬ先を悟りとぞいう
— 一休 宗純 (@ikkyubot) 2012年9月3日
煩悩まみれで超低俗に生きるのだって、そもそも価値自体の根拠が不明なのだから、本当のところは良いとも悪いとも言えない。その意味で、聖人君子と言われる人たちの生き方も、超低俗な凡人の生き方も同じだと言えるでしょう。
人間いかに生くべきか?
その問い捨てて生くべし。