不合理ゆえにわれ信ず
こんにちは。ナナコです。
今回は、ツイートのご紹介と、感想的なものです。
今日息子が保育園から持って帰ってきたクリスマスのサンタさんにお願いするカード。
— たくぼん (@taaahchan) 2017年12月20日
みんな欲しいおもちゃとか書いてる中息子だけが健勇の怪我してるところ全てくださいってお願いしてる。これを書いたのは先週で、妻にサンタさんってなんでも欲しいのくれる?って聞いてたみたい。 pic.twitter.com/mELazAtJVo
昨晩、家の奥さんが大杉漣さんが亡くなったニュースを見ていて、
— okoshi(くろくまの家) (@okoshi2017) 2018年3月5日
「この俳優さんシンゴジラに出ていた人だよ~」と、小学1年の息子になんとなく伝えたそうです。息子は寝る前にいつも落書き帳に絵を描いていますが、今朝見ると大杉漣さんのお墓に花を手向けるゴジラたちを描いていました。 pic.twitter.com/Q47wndtp2g
「無駄を省こう。無駄なことをしている暇はない。それが、本質的なことを重視する、あるべきあり方だ。」
不合理的な旧習を見直そう。
最近の世の中は、合理的でないものを排除するよう動いているように思います。
お葬式は古くからの慣習が残りやすい行事ですが、それでも最近は、無宗教のお葬式が増えているようです。散骨とか、お葬式自体しないとかも。「形式は関係ない。気持ちが大事なんだ。」という話も聞きます。形式を重視するより、気持ちをこめることの方が合理的だと感じるから、そうなってきたのでしょう。(この場合は、合理的と言うより「道理にかなっている」と言うべきかもしれませんが。)
でも、それでも、不合理で古典的なパターンは、突然ふっと現れる。
自己犠牲の祈り。
弔いの花。
上記のツイートは、子どもの感性を素晴らしいと思っての呟きでしょうが、素晴らしいと思う中に、「なぜ、こんなことを?」という驚きも含まれているように思えます。