記憶がないと生きていけない?
こんにちは。ナナコです。
私たちは記憶をベースに動いているみたいです。
「幻覚や幻聴」で、自意識と幻覚・幻聴と、区別はどこでつくのか、と書きましたが、記憶と照らし合わせて矛盾があるかないかで判断してるのかなぁと。
ソクラテス:
われわれはたしか、「渇いている」という言葉をいつも口にするだろう。
プロタルコス:
勿論ですとも。
ソクラテス:
だが、これは「欠乏している」ということだろう。
プロタルコス:
確かにそうです。
ソクラテス:
ところで、渇きとは欲求だね。
プロタルコス:
そうです、飲物への欲求です。
ソクラテス:
飲物のかね、それとも飲物による充足のかね。
プロタルコス:
私の考えでは、充足の欲求です。
ソクラテス:
そうだとすると、われわれのうち欠乏状態にある者というのは、どうやら、自分が現に経験しているのとは反対の状態を欲求するものらしい。だってそうだろう、欠乏状態にあればこそ、充足されるのを憧れるのだからね。
プロタルコス:
それは全く疑う余地がありません。
ソクラテス:
ではどうだろう、何よりも初めに欠乏の状態に置かれた者には、感覚によってにせよ、記憶によってにせよ、とにかく充足を関知しうる手だてがあるかね、つまり、充足という、現在経験してもいなければ、これまでにいつか経験したこともないものをだね。
プロタルコス:
そういう手だてのあろうはずがありません。
ソクラテス:
しかし、いやしくも欲求している者は何ものかを欲求している――これがわれわれの主張だ。
プロタルコス:
確かにその通りです。
ソクラテス:
そうだとすると、少なくとも現に経験しているもの、このものを彼が欲求することはないわけだ。なぜなら、彼は今渇いているが、これは欠乏状態であり、しかるに彼が欲求しているのは充足なのだこらね。
プロタルコス:
そうです。
ソクラテス:
とすると、充足については、渇いている者の或る部分がなんらかの仕方でこれを関知しうる、ということになるだろう。
プロタルコス:
当然そうなるべきです。
ソクラテス:
でも、肉体がそれであることは不可能だ。なにしろ、肉体は現に欠乏の状態にあるはずだからね。
プロタルコス:
そうです。
ソクラテス:
すると、残るところ、魂が充足を関知するのでなけらばならない――勿論のこと、記憶によってだね。そうだろう、まだその他に魂が関知しうる手だてがあるかね。
プロタルコス:
他には何もないと言ってよいでしょう。
ソクラテス:
では、われわれにはもう判っているね、この議論から出てきた結論は。
プロタルコス:
どんな結論でしょう。
ソクラテス:
そう、肉体には欲求が生じないということを、われわれのこの論は主張しているのだ。
プロタルコス:
それはどうしてでしょう。
ソクラテス:
つまり、すべての生きものの企てが、かの肉体の経験内容とは常に反対のものであるということを、この論は示しているからだ。
プロタルコス:
全くそうです。
ソクラテス:
そしてまた、衝動だが、これは現在の経験内容とは反対のものへ導いて行くことによって、おそらく、現在の経験内容とは反対のものについての記憶があることを明らかに示しているだろう。
プロタルコス:
全くです。
ソクラテス:
したがって、われわれのこの論は、欲求の対象へと導いて行くものが記憶であることを論証することにより、衝動や欲求など、いっさいの生きものを動かす原理はそのすべてが魂に属していることを明らかにしたわけだ。
プロタルコス:
全くその通りです。
ソクラテス:
したがって、われわれの肉体が渇くとか、空腹であるとか、あるいはこの種の経験をしているなどということは、いかなる意味でもわれわれの論の認めないところなのだ。
プロタルコス:
それは全くその通りです。
『ピレボス』より