精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

『死と生きる』

こんにちは。ナナコです。

今回は 

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

 

 について書いてみようと思います。

 

 

なぜ人を殺してはいけないのか。
私は小学生の頃「法律さえなければ、アイツ殺すのに」とか言っていた…周りもけっこう、そんなようなことを言っていたと思う…笑
前科者になりたくないから殺さない、という人は、年齢関係なく多いのかもしれません。

でも、本当に法律がなかったら、みんな簡単に人を殺せるものなのでしょうか。
当時、私は六法全書なんて見たことも聞いたこともなかった。多分、周りの子たちも。誰かから「人を殺してはいけないと、法律で決まっています」なんて、教えてもらったこともない。「人を殺してはいけません!」なんて注意されたことなんかも、もちろんありません。

「法律」と言いつつ、その内容を1文字も知らなかったのだから、当時の私や周りの子たちが言っていたのは、実は本物の法律のことじゃなかったといえる。

お分かりいただけただろうか…
法律とは関係のない、謎の善悪が存在する…

その謎の善悪、いわゆる倫理についてを中心に、人間の根本的な部分を考えていく往復書簡集です。

陸田真志氏は強盗殺人と死体遺棄で死刑判決を受けています。

池田晶子氏の質問

なぜ、「金が欲しくて」、「人を殺す」のでしょうか。どうしてそういうことになるのでしょうか。あなたには理解できますか、できているのですか。

私がいま言っているのは、殺人の「善悪」、倫理の問題ではありません。(略)「金が欲しい」ということと、「人を殺す」ということは、全然別のことなのに、なぜそこが「短絡」することができるのか、その心理の不思議のほうなのです。どうすれば、そんな飛躍が可能なのか。

 これに対して彼は

どんな方法にせよ金さえ得れば何でも手に入る。人間はそれで全的幸福を得られると考えていました。この意味において「金銭目的で人を殺した」という事がすぐ納得できる人間は、以前の私と同じく、その全的目標の為なら人間は殺人でも何でも出来る、つまり自分もそう思うと考えている訳で、これは大変危険な思い違いです。

それから

本能(実在)として理性(及び自我)を持ち、未だに原始的観念を制御しきれていない不統一(不自然)な存在である我々は、その理性によって統一を目指すべく存在しているように思えます。それを分からなさ余って(それが自身なので失くすことは絶対に不可能な)、「理性及び自我」を取り去る事で自己の統一を求める(正に倒錯した)精神が、サドマゾなど変態行為や残虐性を求め、それでも完成(統一)を求めて存在を止められない一部の精神が、その最大の障害である「殺人」(この場合は理性)や「自殺」(この場合は自我)を乗り超える事で、それが果たせると誤信するように思えます。私が自身の「完成された勝利」がそこにあると考えたのも、それが理由のように思うのです。その他の殺人者も私と同じく、「自己愛」が極度に強まった時に、その自己(目的の為の)存在の完成の為に殺人を行うという「短絡」が起こるように思うのです。

さてもう一度話を私の具体的な例に戻すと、私も「殺す」という観念を持っていたにせよ、やはり理性による抑制はどうしてもなくなりませんでした。「出来ない」という躊躇がそれだったのですが、私はそれを打ち消そうと必死で、共犯者の兄などに計画を話す事で自分を駆りたてました。その「躊躇」を、自分が小さい頃から超えるべきと思っていた弱さと考えていたのですが、事実は全く逆で、その躊躇こそが自己の本質(理性)であり、それによって「相手に勝ちたい、負けたくない」という羨望や嫉妬、見栄といった欲望、つまりは本当の自分の弱さに勝たなければならなかったのです。

と述べています。

この「躊躇」というもの、理性だけでなく、本当に「自分が小さい頃から超えるべきと思っていた弱さ」の場合があるように思えます。例えば人前でよい行いをすることや、他人に注意するとき等に躊躇する人は多くいるように思えます。

いつから、「清く正しく美しく」生きる事が、汚く不正に醜く生きる人間を一般的にする為の嘲笑と揶揄を、浴びるようになったのでしょう。

それからこれは、宗教団体についての発言ですが、

人が生きる為の絶対の必要事とは、最小の必要事だという事に、彼ら宗教者が何故一番最初に気付かないのでしょう。(気付いていても、そうしたくないだけなのかも知れませんが)。なぜそれが一般の民衆と同じく、限りない欲望の充足になり変わるのでしょう。それを「人間の弱さ」「原罪」「人間も動物の一種」でごまかして、なぜ恥じないのでしょう。それを以て「生きる喜び」と(他でもない宗教者が同じく)なぜ誇らしげに叫ぶのでしょう。

欲望の充足のために「汚く不正に醜く生きる」方が「イキなお兄ィさん」ぽくて今風、という面が、確かにある。理性による「躊躇」と、自分の弱さからくる「躊躇」を判別しにくい環境がある。日本人は波風を立てないことを最優先とする面があるように思えますが、善悪判別できないし、善を行うことは今の時代の流れとも逆行するから、善も行わない代わりに悪も行わない、というところから来ているように思えます。そういう環境の中で「躊躇」せずに「善く生きる」ということは、すごく勇気がいることのように思えます。

ただ、ソクラテスやイエスは「善く生きる」を実践した典型だと思いますが、あの死に方は本当に良かったのか。半分自殺みたいなものではないか?人を殺すという文字通りの意味で、自殺も殺人だと思うけれど、それでいいのか?かなり穿った見方だけれど、逃げようと思えば逃げられたのに逃げなかった、ということは、彼らは他人に自分を殺させた、とも言える。不正に殺された彼らは、他人に不正を実行させた、とも言える。やっぱり「死にたくない!許してください!」って喚いて許しを乞うて殺されることから逃げても、それはそれでよかったのではないか…

話が脱線しましたが、陸田真志氏ははじめ、殺そうと思っても体が動かなかったそう。

一人目の被害者に斧を振り下ろそうとして出来なかったのです。とにかく「体がいう事をきかない」とは、正にあの事でした。これはおっしゃるように、心理や倫理というより「本能」ではないでしょうか。弱くはなっているが決して消えない「理性」、つまり人間そのものが自己にとって「悪い」と知っているが故に止める、最後の本能ではないかと思えます。

この辺、経験者のみが語れる部分かと思います。 

「人を殺す」というのは、人間の経験のうちで、最も尋常ならざる何事かであるはずなのに、人の世は相も変わらず殺人ばかりで、殺さない側の人々も、もう慣れっこになっているのか、そんな説明で事足りて、それ以上考えてみようともしない。そういう人々が、やはりあまり考えもせずに、次に人を殺すようになるのではないか。

この世に数々の殺人事件があるけれども、人を殺すということはどういうことなのか、その普遍的な部分に触れられる1冊です。