精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

視点の一方通行性

こんにちは。ナナコです。

先日、サンリオピューロランドで『KAWAII KABUKI ~ハローキティ一座の桃太郎~』を観てきました。
松竹監修なだけあって、劇中劇の歌舞伎はポイント押さえてて、ちゃんと歌舞伎!良かったです。

※ネタバレありなので注意です。

 

<あらすじ>
ピューロランドに誕生したハローキティ一座。一座のこけら落とし公演『桃太郎』の上演から物語はスタートする。鬼はバッドばつ丸、その鬼に立ち向かう正義の武者を、シナモロール・ポムポムプリン・ディアダニエルが演じ、鬼達との戦いに三武将は悪戦苦闘するも、ハローキティ座頭演じる桃太郎の登場で無事に劇中劇は幕を閉じる。しかしその公演が終わった後、一変して劇場中の電気が火花を散らして停電に。やっと明かりが戻ると、目の前に現れたのは、一座の誰も見覚えの無い鬼。突如現れた見知らぬ鬼の姿に劇場裏は大パニック! 果たして、この鬼の正体は一体誰なのか?
歌舞伎と“KAWAII”が融合! サンリオのキャラクターたちによるミュージカル『KAWAII KABUKI ~ハローキティ一座の桃太郎~』レポート | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス

続きを書いてしまうと、見知らぬ鬼は本当の鬼で、彼は外見で人を怖がらせてしまうことに心を痛めていた。だからハローキティ一座の団員になって、鬼役をやることで、子どもたちを笑顔にしたい……と、一座のもとに来たのでした。

ところで、原作『桃太郎』では、桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治へ行くけれども、鬼が行なった具体的な悪さは描かれていません。そのため、むしろ鬼の所有物である宝物を奪った桃太郎こそ悪なのでは?という意見もあるようです。
鬼の悪行を話に加えたものもあるみたいです。
桃太郎 - Wikipedia

桃太郎の歌の歌詞も、けっこうエグい……
http://j-lyric.net/artist/a00126c/l022a36.html

原作『桃太郎』は、具体的な物語として見ると、確かに問題アリです。でも、「鬼=悪の象徴」として、抽象的な物語として見れば、別に鬼の具体的事情なんて書くまでもないし、勧善懲悪を行った桃太郎=善の象徴に褒美が行くという話の筋は、何も問題がないように思われます。

KAWAII KABUKI ~ハローキティ一座の桃太郎~』は、上記レポート記事によると、「みんな仲良く。その前に違いを受け入れて、心を一つにみんな仲良く」というメッセージが込められている作品だそうです。原作『桃太郎』と比べたら、全然マイルドな話です。
でも、やはり前提に「鬼=悪の象徴」がある。それがあるからこそ「子どもたちを笑顔にしたい」という鬼の気持ちが意味を持つのであって、同じことをキティちゃんが言っても、お話にならない。

最近では、昔話はグロテスクな描写が多いので、内容を変更したものが多く出回っています。けれども、原作『桃太郎』のような、暴力的で一方的な勧善懲悪は、実は人の本質的な一面だったりします。

私たちは他者の視点を持てない。一方的にしか物事を見れない。
複数視点を具体的に描いた物語として『ぼくの地球を守って』(リンク先はWikipedia)という漫画がありますが、登場人物が良かれと思ってやったことが、相手にとってダメージになったりしていて、視点の一方通行性がよく表れている漫画だと思います。この漫画、同じシーンが登場人物の視点を変えて、何度も描かれます。他者の視点を持つとは、視点を変えて何度も描かれた物語を全て把握するということであって、そんなこと現実には起こらないし、不可能です。出来事は、常に自分からの視点のみで(他者の視点を想像することも含めて)、一度きりしか見られないものです。

昔話の持つ残酷性は、私たちが本質的に持つ残酷性であるけれども、最近はそこがひた隠しにされている。残酷性は価値の裏面でもあるから、ひた隠しにするのも、それはそれでデメリットがありそうだなぁと思います。。