精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

阿部教について

こんにちは。ナナコです。

今回は、シンガーソングライター兼著作家の阿部敏郎さん(リンク先はご本人のブログ)について書いてみようと思います。

 

なんか今トラブルが起こってるとか??詳細はよく分からないのでスルーしつつも、私がいろいろ気づけたのは、彼のブログでいろいろな情報を知ったことも一因と感じていて、応援と感謝の気持ちを込めて書きました。

たまに見かける
「新興宗教だ。」
の批判、確かにそのとおりで、彼のしていることは説教や布教活動そのものです。
宗教の教祖はある種の気付きがあることに加えて、それを表現する才能と熱意、困っている人を助けたいという優しさが揃わないとなれないものです。
彼のブログや著作を拝見すると、文章は軽くて明るい感じだし、辛い境遇の人への励ましの言葉もあるし、こういう人の話なら聞いてみたいって思える感じです。熱意はさまざまな活動を積極的に行っておられることからもうかがえ、教祖の素質は十分だと思います。笑

ただ、
「新興宗教だ。」
を批判の言葉として使う人は、あるのかないのか怪しい物を信じる宗教に無自覚で入信していたりする…( ̄ー ̄)
多くの人たちがそういう怪しい物を信じて右往左往しているので、宗教の教祖たちは手を変え品を変え「目を覚ませ」と言ってきました。

「自分は地に足ついた考え方をしている。神だの仏だの妄想を信じる人はおかしい。自分とそういう人達とは全然違う。」
という考えはまさしくそのとおりなのですが、では、その地に足ついた考え方をしている「自分」とは何でしょう。
自分の体は「<自分の>体」だから自分じゃないし、自分の脳も「<自分の>脳」だから自分じゃないし、自分の考えは「<自分の>考え」だから自分じゃない。
「自分」はどこにあるんでしょう?探してみてもどこにもない。ないものをあると信じている人は「神だの仏だの妄想を信じる人」とどう違うのか。

「汝、それなり」――!!
その一瞬で、僕の人生は終わりました。自殺をしても残ったであろう「自己」という幻想が、きれいさっぱり消えてなくなったのです。生きながらにして完全に死ぬことに成功した瞬間でした。

 

 

 

このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
彼らのうちの多くの者が言った。
「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
ほかの者は言った。
「これは悪霊につかれた者の言葉ではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
ヨハネ福音書 第10章第19~21節)

 

信じる信じないの世界は、いつの世も大変。。