精神と物質のあいだ

哲学系ブログ。あたりまえの中にあるあたりまえじゃなさについて書いています。

『憂国』 -大義がモラルを殺す?-

こんにちは。ナナコです。

今回は、『憂国』について感想等をつらつらと書きました。

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

読後、気持ち悪くなりました(;∀;)
切腹シーンがグロかったのもあるけど、ほんと、それくらい迫り来る話……もう、こんな話が出てくることは、二度とないんじゃないかなぁ。

 

若い男女が、立派な意図を持って、立派に死ぬ。
死への準備が急ピッチで進められる。彼らの緊張を伴う陶酔感は増してゆく。
全てが最後。全てが輝きだす……

自宅という密室での2人の一挙一動、思考がメインの話なので、話の密度が濃いのもあるのだけど、全体的に異様なハイ感が漂っています。

二人が死を決めたときのあの喜びに、いささかも不純なもののないことに中尉は自信があった。あのとき二人は、もちろんそれとはっきり意識はしていないが、ふたたび余人の知らぬ二人の正当な快楽が、大義と神威に、一分の隙もない完全な道徳に守られたのを感じたのである。二人が目を見交わして、お互いの目のなかに正当な死を見出したとき、ふたたび彼らは何者も破ることのできない鉄壁に包まれ、他人の一指も触れることのできない美と正義に鎧われたのを感じたのである。

彼らには、客観性や他者が存在しない。
他者が存在しないから、彼らは彼らの理想を完全なものとして実現させ、陶酔することができる。「他人の一指も触れることのできない美と正義」は、他人が一指も触れることができない、というより、他人が一指触れたら、消えてしまうものなのです。だって、このシーンに「いやいや、それは本当に正当な快楽なのかね?正当な死なのかね?考え直したまえ」とか言って、第三者が入ってきたとしたら……笑

三島由紀夫ご本人の解説より

憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義の完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。

あと、これはウィキペディアからですが、これもご本人の言葉みたいです。

登場人物の青年将校や、その妻については、〈彼はただ軍人、ただ大義に殉ずるもの、ただモラルのために献身するもの、ただ純粋無垢な軍人精神の権化でなければならなかつた〉、〈彼女こそ、まさに昭和十年代の平凡な陸軍中尉が自分の妻こそは世界一の美人だと思ふやうな、素朴であり、女らしく、しかも情熱をうちに秘めた女性でなければならなかつた〉としている

憂国 - Wikipedia

彼らの切腹理由は大義とモラルの両立が出来ないことでしょう。
三島由紀夫ご本人も政治的意図のために切腹、あと、なんとなくマッスル北村(リンク先はNAVERまとめ)を思い出してしまったのですが、理想の現実化に全力を尽くすと、最終的に死に追い込まれるように思えます。
ロベスピエールとかポル・ポトとか、たまに出てくる、言ってることはいい感じなのに、大虐殺をする人たち……こういうのとも関係がありそうです。