感動をありがとう?
こんにちは。ナナコです。
今回は「感動」について書いてみようと思います。
優れた芸術品は人々に感動を与えるから価値があるとされます。
ブランド品が高価なのも、その歴史だったり品質だったり美しさだったりに多くの人が「すごいなぁ」と心が動かされて「手元に置いておきたい」と思うからなのではないでしょうか。
でも感動することになぜ価値があるとされているかといえば「良い気分だから」ということしか思いつかず、今さら驚きました(゜口゜)
「感動を与える物事は素晴らしい」と、その物事自体の方に価値があるように思えますが、人が誰もいないで物事だけあっても価値もへったくれもありません。価値は人が勝手に与えているもので、物事自体にはありません。
でも何でもかんでも感動しようと思って感動できるわけではなく、何かしらの物事が必要なので、人はその物事に「感動させられている」とも言えます。感動しない物事ばかりの中「感動を与える物事」は希少性もあることから、価値があると感じる…なんか堂々巡り(´Д`||)
「感動」は物事だけでも、感動の心の動きだけでも成り立ちません。両方そろって初めて「感動」が起こる、と言えます。
ところで『古事記』にはオモダルとアヤカシコネという、「不足なし」の神と「言い表しようがなく恐れ多い」の神のペアが出てきて、ペアで出てくる、というところにこの辺の仕組みが表れているんじゃないかと思います。(Wikipeddiaには「人体の完備を神格化」とありますが、個人的には文字通りの神なんじゃないかなぁと思います。)
→オモダル・アヤカシコネ - Wikipedia
この神たちの次にイザナギ・イザナミが出てきます。それまで延々神が登場するだけだったのが会話したり動いたり、物語の体を成してきます。
何も感じないことには何も語りようがないので、物語るためには感情が動く必要があります。(何も感じないのに物語りをしようとすれば、何がポイントか分からないので、登場人物の一挙一動、風景等全てをことごとく説明するか、黙るかになると思われる。)名前といい、登場のタイミングといい、この2神は感動のはじまりなのではないかと。
「不足なし」は出だしに挙げた例で言えば「美術品」「ブランド品」にあたるんじゃないかと思います。人がいなくなった宇宙にポカンと素晴らしいカルティエの時計があってもただそれだけですが、人が「アヤカシコネ」という感情を持って見てやっと
「すてきな時計!」
と馴染みのある私たちの現実になります。
つらつら書きましたが、小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない」で全てが言い尽くされてる気がしてきました。笑
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